名所・旧跡案内
十六柱神社(林 垣)

祭神は大己貴尊(オオナムチ)ほか十五柱の神霊を祭るというが、御神体は阿弥陀仏であるという。立派な社殿、拝殿とこもり堂を持つ。創建の昔は詳細でないが、此地在家の繁栄と共に近接諸所の神を合祀されたるものと云い、承應年間(1652〜1654)に祭祀したと伝う。『兵庫県神社誌』には境内社として稲荷社のみ記されているが、境内の左手にも、いくつかの祠があり、左から、甲子神社、行者堂、夜鳴荒神と書かれている。「夜鳴荒神」には、小さな祠が安置され、鶏の絵馬が奉納されている。

隨泉寺 延命寺(林 垣)

隨泉寺は高野山南院末であり、本尊は薬師如来である。観音堂は、境外観世音にして寺号法瀧山延命寺なり、本尊は行基の作と伝わるもその信偽の程は知らず、天平年間(729〜749)に創建された。江戸初期に随泉寺に合併され観音堂とその名が残った。延命寺は但馬西国三十三ヶ所十三札所として美男美女の参旨が多い。
 御詠歌 ほどとおき そのあかつきを まちてみん いのちをのぶる てらにすむみは 

光福寺(寺 内)

京都大本山妙心寺末であり、元和年間(1615〜1652)の創立である。臨済宗妙心寺派に属し、本尊は聖観音である。正法派の宗徳首座という僧が尼寺を寺内経谷山の麓に興された。この地を光福寺跡とも光福庵とも言い、また、この庵寺の前面の地を「古大門」と呼び、裏山を「経谷山」と名付けている。慶安3年(1650)の春に、潜林和尚がこの光福寺の初代開山として荒寺に入った。潜林和尚が病に倒れた後、江戸牛込の芳心院にあった単心和尚に二世光福寺住職に就くことを要請した。就任した単心和尚は、京極氏を(だん)(おつ)として迎え、寺の再建を行い、光福寺は大きく飛躍した。糸井京極家の墓所は江戸の青山海蔵寺であるが、慶安年中(1648〜1652)光福寺を菩提寺として代々の霊位をまつり帰依していたという。開基京極兵部高門の寄進になる銅佛三十三体は今も同寺にまつられ宝物になっている。

  大師堂(寺 内)

大師堂前のバス停から直線距離2.6kmの標高92mの山裾に、真言宗の開祖である空海(弘法大師)(774〜835)を祀っている。



妙法寺(高生田)

京都立本寺末であり、日蓮宗にて本尊は釈迦牟尻佛である。伝説によれば往昔は西の小谷にあり、豊岡立正寺僧日順が住んでいた頃は立正院と号していたが、月審上人の但馬在巡教の時に、妙法流布せんことを希い、山号を広布と名づけ号を妙法と改めたと云う。境内に妙見堂あり、本尊妙見の尊像は、能勢妙見大王の神体である。故あって当地に遷せりと云う。

 

瑞泉寺(和 田)

臨済宗妙心寺派黒川大明寺末であったが、中古本山直末となり、本尊は釈迦牟尼如来にして和田坂の下にある。開基は月海卯首座にして創立の年月は不詳である。説によれば本寺は元延命庵と唱え西方の山麓(内海区)にありましたが、火災により現今の寺号に改めたと云はれています。



徳林寺(竹ノ内)

丹波千ヶ畑法常寺末であったが、今は妙心寺直末となり、竹ノ内山ノ内に所在する。この寺の草創は古く、文武天皇の慶雲年中(702)に行基僧正が十一面観音を彫刻して本尊とした。この寺は但馬西国三十三ヶ所十四番の札所で、元は檀家を持たない観音堂であった。この観音には、寛政年間、火災にあって走り出たという伝説を持つが、古書その他を焼失したため、開基創建由来等は不詳である。明和4年(1767)に大隠素林が再興し、その後、大舟恵燈和尚が中興となり復興している。
 御詠歌 つきしもは おくともくらぬ ときわなるとくのはやしのごとくなるらん 

光福寺の庭園(寺 内)

庭園様式は池泉観賞式庭園である。庭園の東西の距離は約40mあり、裏山の傾斜面を利用して築山とし、下部は細長い園池を設けた作庭である。築山には三十三観音を安置しており、石段や園路を利用して三十三観音を巡る形式でもあることから回遊式庭園と考えられる。寺に伝わるところによれば、二世単心和尚の時代に山を切り開いて、枯山水、心字池などの庭園を作ったという。光福寺の門前にある再建を記せる石碑の裏面の刻字からは中興されたことだけで、作庭についての記載はない。樹木類は全庭、サツキ・ツツジ類を配している外にサクラ・カエデ類が中心で築山の背後はスギ林になっている。

床尾(とて)の三滝(竹ノ内)

「森林総合利用管理施設」の建物裏の床尾三滝への遊歩道を5分位進んだところに一の滝があり、落差5mで二列になって落ちています。一の滝からそう距離がないところに二の滝があり、落差10mぐらいが黒い岩肌を行き勢いよく流れ落ちています。二の滝からさらに進む(遊歩道入口から30分位)と三の滝が現れてきます。

不動の滝(竹ノ内)

この滝は「床尾の三滝」入口の管理施設から林道を車で5分ほど走ったところにあります。橋が目印です。落差4m。5段になって流れる渓流漠です。滝というより渓流に近いものですが、不動明王が祀られた信仰の滝です。



らかんの滝(竹ノ内)

別名ダイゼンの滝ともいう。西床尾山登山入口から羅漢(らかん)の谷を徒歩25分位登ったところにある落差約10mの滝です。

糸井渓谷(竹ノ内)
円山川の支流糸井川にある糸井渓谷は東床尾山、西床尾山、鉄鈷山の三山に囲まれた美しい渓谷であり、半ばに床尾の三滝と不動の滝がある。約2qの清流と岩々、広葉樹林からなる渓谷の中ほどには推定樹齢2000年、国の天然記念物に指定されているカツラの巨木がそびえ立つ。渓谷のあちこちにオタカラコウやシダの群落が多く茂り、谷の一部にはオオバノハチジョウシダやフジシダなどもある。「床尾の谷」と呼ばれる枝谷にはオオバアサガラガラが密集し、大小の甌穴もみられる。春は新緑、秋は紅葉が見事である。

  甌穴(おうけつ)(竹ノ内)

河床や河岸が硬い岩盤の表面に凹凸があると、そのくぼみに落ち込んだ(れき)が渦流によって回転し、岩盤を削って生じた円形のくぼみである。かめ穴、ポットホールとも言います。直径約30pの見事な甌穴もあり、甌穴の底には摩耗した丸い小石が残っているものが羅漢谷の山頂に近い場所(西床尾山登山口から徒歩30分位登ったところ)で見ることができる。

東床尾山・西床尾山(竹ノ内)

八百メートル級の起状連峰、東西二峰(東床尾山839m・西床尾山843m)あり、こうもりの翼を張ったような形で聳え立ち、山体の6合目〜8合目レベルまでを流紋岩や安山岩質の火成岩が主体をつくり、急峻な大・中起状の斜面が、深い谷を形作っている。東床尾山頂には一等三角点がある。東床尾山頂は三百六十度の展望が開け、北但一望、また晴れた日には遠く宮津方面まで眺望することができる。昭和36年に出石糸井県立自然公園内に指定され、竹ノ内奥から山頂まで2キロのハイキングコースになっている。4月下旬の東床尾山から西床尾山への縦走路は新緑も美しく、また、秋は紅葉が見事であり、近年、阪神間から多くの人が訪れている。



  糸井の大カツラ(衣木)(竹ノ内)【国の天然記念物】

糸井渓谷最奥部に立地するカツラの雄株で、推定樹齢2000年、樹高35m、枝張り東西30m、南北31mの巨木です。空洞となった主幹の周囲を大小約84本の孫木「ひこばえ」がその周囲を、旧主幹を保護するような形で林立している。「ひこばえ」の中にリョウブ、オオズミ(オオウラロノキ)の2本がくいこみ、キヅタ、イワガラミ、ツタウルシ、ツタなどが巻き、シザ類の一種ユタニワタリがいっぱいに付いている。昔、この地方の「おお日照り」に名僧を招き、この木に法衣をかけて雨乞いの祈願を行い、干害を救ったことから「衣木(ころもぎ)」とも呼ばれ神木として奉られている。昭和26年6月に国の天然記念物に指定されている。

西垣六十六石佛・ 三十三観音(竹ノ内)

地蔵尊は天日槍伝説に由来する。昔、泥海であった但馬の地を、新羅の王子・天日槍命が瀬戸の岩山を切り開き、但馬の平野を開拓したとの伝説があり、その際泥がなかなか乾かないため、その地固めを祈り六十六体の地蔵を祀ったものと伝えられている。が、石仏に刻まれている年代が文政であり、文政4年(1821)全国的に流行した疱瘡・咳病・麻疹により多の人、特に子どもたちが死亡した。それを弔うため坂の下半分に六十六体の地蔵を祀ったものとされている。また、坂の上半分には、西国三十三カ所観音霊場を象徴して三十三体の菩薩像(観音)が祀られている。紀年銘に文化15年(1818)と刻まれている。六十六体の地蔵と三十三体の観音がそろって祀られているのは、但馬では唯一ここだけということである。

コサカゼ地蔵(内 海)

内海コサカデ(地名)奉られているお地蔵さんです。探し物がなかなか見つからない時、昔からここにお参りすれば、不思議とよく見つかると伝えられ、遠くから沢山の方がお参りされています。
(体験された方の話を集計しますとだいたい約3日〜5日程度で探し物が見つかているようです?)

ざんざか踊り(寺 内)【県指定無形民俗文化財】

毎年7月15日を夏祭りとして田植えの終了を神の御前に奉告し、稲の順調な生育を祈り奉納されていたが、現在では生活スタイルの変化から、7月の3日曜日に佐伎都比古阿流知命神社と別当寺である光福寺境内で行われている。茶褐色に水玉模様の襦袢・股引という山王権現の遣いである“猿“にふんした10人の踊り手が円陣を組み、腰の太鼓を「ザンザカザットゥ」の囃子(はやし)に合わせて打ち鳴らして踊る「側踊り」、また、その中心では踊り全般の指揮をとる2人の「新発意(しんぼし)」、輪の中央で太陽と月に見立てて飾り付けられた高さ4mの「しない」を背負い、それをぶつけあい、からめあいながら踊る2人の「中踊り」で構成されている。歌に合わせて打つ太鼓の音が、あたかも「ザンザカザットゥ、ザンザカザットゥ」と響くことから「ざんざか踊り」と名づけられたという。この祭踊りは、俗に“太鼓踊り” と呼ばれ、天下泰平・五穀豊穣・子孫繁栄を願って、慶安(1648〜1652)のころから始まったと伝えられている。

兵庫県の指定無形民俗文化財である。



   大仙塚 (林 垣)

慶長18年ごろ、村に疫病が流行し、この病魔を退散させるために、当時は高貴な人の経文のお祈りによって退けられる風習があり、村の寺の住職であった真言宗の偉いお坊様の秀恵が自らの命を生きながらにして、経文を唱えつつ、生き埋めを自ら実行されたとつたえられている。明治・大正の頃は大きな塚として五輪塔が置かれて祀られていましたが、現代は碑のみが市道馬瀬場線沿いに建立されています。

竹ノ内隕石落下地点(竹ノ内)【日本最古の隕石落下地点】

明治13年2月18日午前5時30分頃、大きな火の玉が尾を引きながら竹ノ内1020番地の岩田佐二郎宅土蔵に南方より北方に向けて落下した。落ちた場所が竹ノ内というので「竹ノ内隕石」と名付けられ、そこに記念碑が建てられている。日本に落ちた隕石の中で落ちた日時・場所がわかり、科学分析ができた最初のものである。重さ718.7グラムの現物は、国立科学博物館と国土庁日本地質調査所などにカットされて保管され、レプリカは和田山郷土歴史館に展示されている。


  
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